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書を深く学ぶということ(2018年7月号) [2018]

「書」に関する仕事をしていると、日常において賞状や挨拶状などの筆耕物を書くことがあります。日々の仕事に追われつつも「形」に残るものを作り上げられることは、この仕事に就いてよかったと思う点です。様々な書状がありますが、一つ一つが作品であり、誰が書いたかという名前が出ずとも発注者に喜ばれる仕事をすると、研鑚を積んできた甲斐もあるものです。
「書」を作り上げるには、楷・行・草の書体、旧字体、書写体、変体仮名、歴史的仮名遣いなどの知識が必要になってきます。草書体などは現在義務教育で学ぶものではなく、読める人も限られてきているとは思いますが、署名や挨拶状などに今でもよく使われています。線の息が長いだけ、書のイントネーション性が高く、「書は目に見える音楽」という言葉が強く感じとれる書体です。宛名書きをするにしても、「髙橋」か「高橋」か、「麴町」か「麹町」か、「辯護士」か「弁護士」をどう書き分けるかの知識がなければいけません。和歌や俳句などを正確に記すためにも変体仮名や歴史的仮名遣いの知識は、必須のものとなってきます。
 先日も和食店で食事をしていたら、昔の書が飾ってありました。店主曰く、これでも日本語なのですかね、読める人なんているのですかね、とのことでしたが、読んであげたら少し驚かれました。古都などを訪れて、史跡めぐりをするにしても寺院の門標や古文書をそのまま読めるのは有難いものです。大学の授業などでは文献を原書で読むことなどがよくありますが、数百年前に書かれた日本語を、そのまま読める学生が少なくなっており、文化の断絶が危惧されています。英語圏などはこうした問題があまりありません。日本人が日本について深く学ぶことの入口が閉ざされているようで寂しいものです。
 日本の伝統文化を学ぼうとすると、書や筆文字とふれあう場面にしばしば遭遇します。また、「書」には書き手の造型感覚やイントネーションといった表情性が残るため、活字化された文字にはない筆者との深い対話が生まれます。花鳥風月を愛で、伝統文化の美意識を体現した書を学ぶことは、その理解の大きな助けになるはずです。森羅万象を文字で伝える書の学びは、あらゆる道に通じているはずです。

書作品への暦の表記について(2018年6月号) [2018]

 書作品の落款に暦を記入する際、例えば二〇一八年六月十五日と書こうとしたとしましょう。これでは数字ばかりで、漢字の繁体性が活かされないので、干支や月の別称を用いて書くことの方が多いものです。平成戊戌水無月中澣五日(※中澣は十日という意味もあり、その五日後ということから十五日を表す)とすれば、文学性や造形的な表現力も高まります。
 さて、ここで問題になるのが水無月の表記です。ちなみに六月の別称は他にも常夏月、涼暮月、松風月、風待月、鳴神月などがあります。六月といえば梅雨どき、雨が降ってやまぬ時節に「水の無い月」とはおかしなもので、これは旧暦における呼称に他なりません。師走など年末を表すものであれば問題ないのですが、月の別称の多くは季節と関連してくるため、このようなずれが生じてしまいます。旧暦と新暦とは一月半程季節のずれがあります。明治五年十二月三日を明治六年一月一日と改め、ここから現在の新暦が始まっています。六月が水無月ということは世間では定着していますが、常夏月と書くとさすがに季節感とのずれは大きくなってしまいます。本来の使い方と今の使い方にずれがあるものは少なくありません。五月晴れといえば今はゴールデンウィークの頃の初夏の晴天を指しますが、もともとは旧暦五月の梅雨の雲間に見えるわずかな晴れ間を意味するものでした。七夕なども本来は旧暦の七月七日の行事でしたが本来は、より夜の空が澄む旧暦七月の真夏の頃に行われたもので、この季節感を重視して仙台の七夕祭りなどは、八月七日を挟む三日間で行われています。
 私は、この暦に関する別称を用いる際、水無月など定着性の高いものについてはそれに倣い、実際の季節感と大きくずれる場合は、季節感の方を大切にするようにしています。また、書いた月日をそのまま書かなくてはならないという決まりはありません。これは年賀状を書く時に十二月に書いたとしても一月一日とするのと同じで、暦をどう表記するかでその書の意味するものが変わってくるからです。暦の表記について考えてみることも奥の深い書の探訪には欠かせないと思います。

書作品製作の要諦(2018年5月号) [2018]

 書作品、例えばここでは漢字の条幅作品を製作するとしましょう。誌上展に向けて何を書くかについてお悩みの方は墨場必携類を参照されるとよいのではないでしょうか。墨場必携は書作品の題材となる言葉が集められています。四季に関するもの、慶賀、哀傷、旅情、風雅、教養等々のジャンルごとに、それぞれ文字数別に整理されているのが一般的です。
 まずは文字数です。条幅作品、ここでは最もポピュラーな小画仙半切サイズで考えてみましょう。十文字位迄なら一行で収めるとよいでしょう。十二文字~二十文字位迄なら二行書きです。二十文字は漢詩の五言絶句の文字数です。七言絶句となれば二十八文字になりますので、三行書きがふさわしいでしょう。
 文字数が決まったら、今度は言葉選びです。文字数も言葉もイメージ通りだからといってよしとはいきません。実際に書いてみたら、意外に同じ点画が連続していたり、行どうしがうまく調和しなかったりすることもあるものです。書作品として見せ場や変化をつけられる造形性、運筆のイントネーション性を考慮して題材を選ぶことが必要です。もちろん、楷・行・草・篆・隷など、どんな書体で書くかによってこれは変わってくることは言うまでもありません。
 作品には落款(書者名や詩の作者名、日付、題名等々)を書き入れます。「落款全幅を破る」という言葉がある位、作品本文が立派に書けているのに、落款が調和していないがために作品全体が台無しになってしまうことがあります。そうならないためにも、作品本文と同じか、それ以上に落款の書きぶりに注意を払うべきです。黒一色の中に朱で書美を極立たせる印の選定も重要です。落款印(姓名印・雅印)だけではなく、冠冒印、押脚印などの使い方次第で、作品がぐっと引き締まってきます。
 最後にお勧めしたい点は、ぜひ未経験の言葉、書式に挑戦するということです。自らの頭をひねって完成させた作品は、書き慣れた隙のない書と比べ、書を通して鑑賞者との間に深い対話が生まれるものです。これは巧拙を問うものではありません。書の生みの苦しみは、必ずやそれ以上の豊かさをもたらしてくれるはずです。

九宮法(きゅうきゅうほう)(2018年4月号) [2018]

 四月、新しいことを始めるに絶好の季節です。私も新たにいくつかの講座を担当することとなりました。新しい出会いがあり、そしてその人の数だけ様々な文字を拝見させていただいています。
 最近の文字の傾向は、「手書きらしい」文字よりも、おしなべて「活字的」な文字を書く方が多くなったように思います。これは特に若年者に顕著な現象です。活字は読み易いようにデザインされていますが、メリハリが弱く、「美しさ」「表現力」「表情性」という面では手書きの文字とは差があります。
 文字を書くマスの中央に、たて横の線を引いて練習したことはありませんか。これは古来より「田字格(でんじかく)」と言われ広く活用されてきたものです。これ以外に「米字格(べいじかく)」というものもあります。書道半紙の下敷きにこのような罫線の引かれたものを見たことのある方もいるでしょう。それから、「九宮格」というものもあります。この「九宮格(きゅうきゅうかく)」で練習することを「九宮法」といいます。これで練習したことがある方は少ないと思いますが、活字的な文字を書く人の増える昨今、私はこの九宮法に注目しています。九宮法だと、文字の奥行き感覚について学び易いからです。
 例えば「市」の字です。活字的に書くと、市の字の一の線は左右のたて画とほぼ同じ幅になるのですが、手書きらしくメリハリをつけて書けば、一の線は長く左右のたて画は九宮格のたての二本の線に寄ってきます。元(げん)の陳繹曾(ちんえきそう)の『翰林要訣(かんりんようけつ)』第九には、「九宮は八面の点画みな中心に拱(かか)ふ」とあります。周囲にある八面の点画がみな中心の格にかかえこまれるように集中すべし、と述べているのです。
 書を学ぶには、それこそ数え切れない程の練習法がありますが、活字的な手書きが溢れるこのごろ、この九宮法を見直してみるのもよいかもしれません。
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誌上展に向けてスタート!(2018年3月号) [2018]

 四年に一度の「実り」誌上展が、今年の十一月号で行われます。東京書藝展のように、会場を使わず「実り」誌上での作品発表会です。誌上展の特徴は、会員全員に作品が配布されるということです。それだけに後々まで残るものといえるでしょう。また、遠方にお住いの方も平等に参加が可能となります。
 作品を創り上げることは無から有を生み出すが如く容易なことではありません。そのためには作品完成に向けて段階をふみながら進んでいくことをお薦めします。まず、第一には題材選びです。書は「言葉」を扱います。どんな言葉を選ぶかは、何を表現するか大切なメッセージになります。次に、書きぶりです。字体、書体、配字等を考えます。筆記具、墨、用紙を選ぶのも書を愉しむ醍醐味の一つです。特に今回は「誌上展」となりますので、作品のサイズは大きいものは縮小され、逆に小さいものは拡大されて掲載されます。実り誌面において鑑賞されることを前提としますので、その字粒、書式等を決めることも重要です。
 ここまでお話しすると、さも難しい作業のように思われるかも知れませんが、作品制作に迷ったら、指導者に相談したり、また過去の誌上展号を参考にしてみるとよいでしょう。作品を一つ創り上げる過程では様々な学びがあるものです。多種多様の作品が掲載されることが、必ずや会員同士のこれからの学習の大きな励みになることでしょう。上級者、初心者を問わず、誌上展へぜひ挑戦してみて下さい。
 これからの時期、寒く乾燥した空気も和らぎ、墨も滑らかな季節がやってきます。誌上展に向けてスタートするにはちょうどよい頃合です。会員の皆様が書の幅をさらに広げられますことを期待しています。

アナログへの回帰(2018年2月号) [2018]

 新年早々、家族で大きな文具店めぐりをしてきました。多くの若年層が楽しそうに文具の品定めをしており、大変な賑わいぶりでした。求める文具にもこだわりがあるようで、シャープペンシルの芯の太さや、消しゴムの消え方のレベルなど、様々な角度から観察しているようすが印象的でした。
 最近は、クラシックモデルとして売り出された高価なシャープペンシルが飛ぶように売れていると聞きます。私の普段使いの硬筆は、ほとんどが万年筆かえんぴつで、シャープペンシルの世界には少々疎いのですが、それはそれでアナログ的な価値があるのでしょう。今年いただいた年賀状を拝見して、二十歳未満の若年層に、あて名書きを含め手書き率が高かったようでした。デジタルネイティブと呼ばれる世代にして、かくありきかと感じた次第です。
 二〇一二年六月二十七日、ヨーロッパで最大の発行部数を誇るドイツの新聞『ビルド』紙が前代未聞の手書きの第一面を発行し、手で書く技術を軽視してはならないと警告しています。「手書きの機会が減り、脳が退化する」とし、「手書きの復興」を呼びかけたのです。イギリスの研究では、成人のうち三人に一人は半年間一度も手書き文字を書いたことがなく、平均すれば四十一日間も文字を手書きしていないという調査結果も同紙は報告しています。
 アメリカでは二年以上、電子書籍の販売が減り続けており、一方、紙の本の売り上げが回復しているそうです。この理由には、タブレット端末を長時間使うことによる「デジタル疲れ」があるといわれています。
 子供達の学習のようすを伝える通信簿が、いつの頃からかパソコンで打たれてあたり前となってきました。一方で、通信簿の先生からの所見の欄は必ず手書きするとしている学校もあるそうです。
 文化人類学の学問領域では、人類の進化は手作業の高次化と比例していることが前提となっています。ボタンやパネルばかりの生活を送る人が増える時代、これをどう捉え、解決していくか、人類は文明の大きな岐路にさしかかっていることに気づくべきでしょう。

書画琴碁詩酒花(2019年1月号) [2018]

 あけましておめでとうございます。昨年中は会員の皆様と共に平素の教室、行事等を無事行えましたこと御礼申し上げます。今年は四年に一度の誌上展の開催の年でもあります。日頃の稽古の成果を形に残すよい機会です。皆さまの参加を心よりお待ちしています。
 冒頭の言葉「書画琴碁詩酒花」は、古来文人墨客が友として楽しむ七つの事柄を指したものです。新春の雰囲気にも合う雅な言葉です。脳科学的な視点からみれば、「画」は視覚野を、「琴」は聴覚野を、「詩」は言語野を通して脳に刺激を与えます。「碁」などの勝負にかかわるゲーム的要素のある活動は、前頭前野の一部が活発に動き始めることが分かっています。また「酒」を飲むと大脳皮質の「抑制」「判断」「注意」……などといった人間の高次な機能は低下しますが、そのかわり、それに抑えられていた大脳辺縁系といった人間の本能的な部分が顔を出してきます。人間は大脳皮質だけで生きているわけではないのですから、人間の脳活動の源ともなる脳の領域の活動を促してみるのも大切なのかもしれません。李白を始め、歴史的にも活発な言語活動をなした文人に、酒豪が多かったのはこのせいでしょうか。「花」は造型的な美しさはもとより時節の移ろいを感じさせ、その香りも様々です。空間、時間、臭覚等、様々な感覚を同時に刺激します。そして「書」は詩のもつ言語性を始め、画や花が持つ造型性、琴にあるリズム性も以て脳の活動を促しています。
 脳は、様々な領域がそれぞれの役割を果たしながら協調して機能します。領域の境界は異種感覚心象間の転換が行われるとも言われ、例えば「黄色い声」などといった色と音の異種の感覚が連結します。人が脳の様々な領域どうしのつながりを深めるためにも先に述べたような様々な経験を積むことの意義があるのです。こうした脳の配置は人間が決めたことではないし、もし人工知能を、より人間に近いものにするとしたら、これを模さなくてはならないでしょうし、そもそもその必要はないでしょう。
 世界はIT技術を通して様々な情報を手に入れられるようになってきています。しかしながら書画琴碁詩酒花を楽しみきれる脳が育まれているとは言い難いようです。手指の微細な感覚や、花自体から発せられる香りは実体験からしか得ることは出来ないからです。シリコンバレーの先駆者たちの少なからずが、その子弟を経験を重視したシュタイナー教育で育てていると聞きます。便利すぎる機械に囲まれていればいるほど身体を通したリアルな経験の大切さが分かってくるのかもしれません。
 世はさらに利便性、合理性を追求する道を突き進んでいます。これも行き過ぎて依存しきれば人間の能力は低くなり、機械に逆に使われるようになってしまいかねません。問題は、機械に極度に依存する未来の社会が、どう機械を使いこなすべきか考えることのできる人間自身の脳機能を維持し続けられるかということにあると思います。人間の知能と人工知能の競争はあと十数年でその臨界期を迎えることでしょう。本会の活動がその備えの一助となれば幸いです。

戌年の年賀状(2017年12月) [2017]

 年の瀬ともなれば、気になるのが大掃除や年賀状という方も多いのではないでしょうか。私も新たな気分で来たる年を迎えたく、書斎の整理や年賀状書きの時間を予定に入れています。
 最近は、私が研究している書字と脳の実験が佳境にさしかかっており、関係者の方々とメールでデータのやりとりをすることが多くなっています。研究や仕事に熱心に取り組めば取り組む程、パソコンに向かう時間が増えてしまう現実があるわけです。手書きは脳の様々な領域を同時に賦活させる活動であるだけに、便利な機械があるからこそ積極的に、意図的に手書きの時間を創り出すべきだ、とは常日頃申し上げていることです。
 その昔、私が大学の受験勉強中、高校の教師から手紙が届きました。数学の先生でしたが漢詩を作るのが趣味で、受験生を励ます内容の自作の漢詩を手書きで贈ってくださいました。卒業後、数十年を経て既に鬼籍に入られた先生を偲ぶ席で、数百人の同期の皆が同じような手紙をもらっていることが分かり、師の御恩の深さに頭(こうべ)を垂らさずにはいられませんでした。先生はがっしりとした体格で豪放磊落、長い顎鬚をなでながら、カッカッカッと笑うようすがよく記憶に残っています。朝、学校へと向かう駅前には、先生が生徒達を待ち伏せをしていて、およそ一キロの道程をよく先生と話しながら歩いたものです。気まずいことがあるときは、かくれるように大通りの反対側を行ったのを覚えています。教育というものは、言ってきかせるだけでなく、身をもって示すことが大切で、先生はまさにそれを実践されていました。黒板に書く文字はその風貌とは似つかわしくない愛嬌のあるもので、コツコツとやわらかなタッチで鳴る板書は、まるで心地のよい音楽を聴くようでした。先生の肉筆の葉書きはセ
ピア色になった今でも大切に持っています。
 来年は戌年。そういえば十月から開校した渋谷校の駅前にはハチ公像。そんな想いを込め、戌年の年賀状を書こうと思っています。来年も会員の皆様と共に書のある豊かな暮らしを送ることが出来ますよう祈念しております。

手で文字を書く教育の課題(2017年11月号) [2017]

 およそ十年に一度改訂される学習指導要領が今年の三月公示されました。平成三十二年度からの完全実施に向け、これをどう教育現場で運用していくかについて議論がなされています。
 今回の改訂で興味深い点は、小学校低学年(一、二年生)において、「水書用筆等を使用した運筆指導を取り入れるなど…」とした文言が見られたことです。ちなみにこの水書用筆とは、先端がやわらかいフェルトペンに近い水書きの筆記用具のことです。文房具店などでも置いてあります。以下は水書用筆に関する記述です。――水書用筆は扱いが簡便で弾力性に富み、時間の経過とともに筆跡が消えるという特性を持っている。この特性を生かして、点画の始筆から送筆、終筆までの一連の動作を繰り返し練習することは、学習活動や日常生活において、硬筆で適切に送筆する習慣の定着につながる。また水書用筆等を使用する指導は、第三学年から始まる毛筆を使用する書写の指導への移行を円滑にすることにもつながる――。
 水書用筆を推奨する背景には、点画の書き方にメリハリがなく粗雑な文字を書く児童や、適切でない握圧・筆圧で文字を書く児童が教育現場で増加しつつある現状があります。
 日本語のタイピング化が一般化し始めておよそ三十年が過ぎました。中国でもパソコンやスマホが普及する中、子供達に文字を手書きする習慣を身につけさせるために毛筆習字が最近必修化されています。
 日本においても同様のことが言えます。手で文字を書くことはパネルをタッチして読み易い文字を作成してくれる便利な機械があるから不要ということではありません。手で文字を書くことが学力にとってどう関係しているかについて、きちんと議論すべき時期がやってきています。

学びの好循環を期して(2017年10月号) [2017]

爽涼の秋、書をするに好適な季節が到来しました。年間賞を受賞された方々には、心よりお祝いを申し上げます。
 書を学ぶということは、学問を探求するのと同じく深遠なものです。獲得したと思ったらまた次の課題が出現し、きりがありません。文字を美しく書きたいと思って、そのコツを学び稽古を重ねたとしても、その先の表現には無限の可能性が横たわっています。きりがないのなら、努力しても無駄ということではありません。学ぶ過程では、集中力が高くなったり、物事を自分の頭で深く考える習慣が身についたりするものです。
 永年書をしていると、それが色々な学びに関係していることに気づきます。「書だけ分かって他のものは分からないというのは分かりかたが浅いに外なるまい。書がその人の人となりを語るということも、その人の人としての分かりかたが書に反映するからであろう」と述べたのは、書をしてそれを最後の芸術といわしめた、彫刻家の高村光太郎です。
 文字を美しく書こうとすることは、脳を広範囲にわたり並列的に活動させるだけに、相応の意志と粘り強い努力が必要になってきます。書と向き合うこと、手で文字を書くことは、多忙の現代社会だからこそ、かえって意図的に、積極的にその時間を造り出すべき活動であるはずです。
 手で文字を書く時間を大切にしている方々がこの度受賞をされたことと思います。皆様の真摯な姿勢に敬意を表しますと共に、その学びがさらに大きく広がっていくことを祈念しております。
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