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手で文字を書く教育の課題(2017年11月号) [2017]

 およそ十年に一度改訂される学習指導要領が今年の三月公示されました。平成三十二年度からの完全実施に向け、これをどう教育現場で運用していくかについて議論がなされています。
 今回の改訂で興味深い点は、小学校低学年(一、二年生)において、「水書用筆等を使用した運筆指導を取り入れるなど…」とした文言が見られたことです。ちなみにこの水書用筆とは、先端がやわらかいフェルトペンに近い水書きの筆記用具のことです。文房具店などでも置いてあります。以下は水書用筆に関する記述です。――水書用筆は扱いが簡便で弾力性に富み、時間の経過とともに筆跡が消えるという特性を持っている。この特性を生かして、点画の始筆から送筆、終筆までの一連の動作を繰り返し練習することは、学習活動や日常生活において、硬筆で適切に送筆する習慣の定着につながる。また水書用筆等を使用する指導は、第三学年から始まる毛筆を使用する書写の指導への移行を円滑にすることにもつながる――。
 水書用筆を推奨する背景には、点画の書き方にメリハリがなく粗雑な文字を書く児童や、適切でない握圧・筆圧で文字を書く児童が教育現場で増加しつつある現状があります。
 日本語のタイピング化が一般化し始めておよそ三十年が過ぎました。中国でもパソコンやスマホが普及する中、子供達に文字を手書きする習慣を身につけさせるために毛筆習字が最近必修化されています。
 日本においても同様のことが言えます。手で文字を書くことはパネルをタッチして読み易い文字を作成してくれる便利な機械があるから不要ということではありません。手で文字を書くことが学力にとってどう関係しているかについて、きちんと議論すべき時期がやってきています。

学びの好循環を期して(2017年10月号) [2017]

爽涼の秋、書をするに好適な季節が到来しました。年間賞を受賞された方々には、心よりお祝いを申し上げます。
 書を学ぶということは、学問を探求するのと同じく深遠なものです。獲得したと思ったらまた次の課題が出現し、きりがありません。文字を美しく書きたいと思って、そのコツを学び稽古を重ねたとしても、その先の表現には無限の可能性が横たわっています。きりがないのなら、努力しても無駄ということではありません。学ぶ過程では、集中力が高くなったり、物事を自分の頭で深く考える習慣が身についたりするものです。
 永年書をしていると、それが色々な学びに関係していることに気づきます。「書だけ分かって他のものは分からないというのは分かりかたが浅いに外なるまい。書がその人の人となりを語るということも、その人の人としての分かりかたが書に反映するからであろう」と述べたのは、書をしてそれを最後の芸術といわしめた、彫刻家の高村光太郎です。
 文字を美しく書こうとすることは、脳を広範囲にわたり並列的に活動させるだけに、相応の意志と粘り強い努力が必要になってきます。書と向き合うこと、手で文字を書くことは、多忙の現代社会だからこそ、かえって意図的に、積極的にその時間を造り出すべき活動であるはずです。
 手で文字を書く時間を大切にしている方々がこの度受賞をされたことと思います。皆様の真摯な姿勢に敬意を表しますと共に、その学びがさらに大きく広がっていくことを祈念しております。

かな書道部設立七周年を迎えて(2017年9月号) [2017]

 平成二十二年十月号より発足した「かな書道部」が漸く七周年を迎えます。
私自身、かな書の学びは得るところが多く、書幅を広げられたのではないかと振り返ります。また七年の間、指導、審査にあたられた先生方には改めてそのご尽力に深く感謝申し上げます。
 書への入口は実に様々です。普段の文字を美しくしたい、のし袋を毛筆で書けるようになりたい、半紙に大きな文字を書きたい…。書への入口はいたるところにありますから、どこから入ってきても構わないものです。しかしながら、続けていくうちに、つきつめれば「書」という共通の学びの中でその本質を追求していることに気付くことがあります。かな書は、ペン字や漢字書や実用書と比べると、運筆一つとってみてもそのリズムやルールが異なります。例えば漢字で横画の一本の線を書くにしても、漢字ならトンスートンと書きますが、「かな」ならスーと書きます。いわゆる習字なら、「かな」はすべて同じ大きさで書きますが、「かな」書なら「こ」「さ」「と」「め」「ら」「る」の文字は小さ
く書く、といったルールがあるのです。また、かな書は変体がなや歴史的かな遣いを用いるので、このあたりの正確な知識も必要となってきますし、和歌や俳句を題材とするため、日本の古典文学に対する造詣も深めていかなくてはなりません。「かな書道部」が独立した部門として設立されたのはこのためです。
 一般に習字というと文字を整えたり美しく書くことを学ぶもので、書道というと、大きくくずして書くものと分けて捉える向きがありますが、実際には、整斉に見える書の中にも不均衡の美があったり、芸術書の古典といわれるものの中にもすきのない正確さはあるものです。
 創立以来の歴史のある書道部・ペン習字部・実用毛筆部・学生部に比べ、新顔の「かな書道部」も、そろそろ草創期を脱し、充実を期さねばなりません。
かな書への更なる取り組みはもちろんのこと、書を広く学ぶことは、書への真の理解に繋がるものと確信しています。

コミュニケーション能力と習字(2017年8月号) [2017]

 習字をしていると和歌や漢詩を書く機会が多くあります。「言葉を書く」という面からすれば、その詩歌の読みや、意味内容を十分咀嚼してから書くのが筋で、自然と文学に親しむようになるものです。特に平安時代の和歌などは人の繊細な心を描写したものも多く、古人の優れた感受性や表現力の豊かさには驚かされます。テレビやスマホなどで大量な情報を収集し、また発信出来る時代です。平安の頃、身の回りの出来事ですべてが完結した頃と異なり、人は賢くなったかといえるでしょうか。古人のような周囲への観察力、洞察の深さや語彙の豊富さには、現代の知識人も舌を巻く程です。
 遠い所の映像を居ながらに見ることが出来、自分に必要と思われる情報を瞬時に手に入れることが出来るようになった一方で、身の周りへの関心や注意が薄れているのではないかとの指摘もあります。家族団欒の食事の時さえ、スマホの操作に追われていては普通の日常を送ることによって得られるコミュニケーションの経験は減少するばかりでしょう。
 ある統計によれば、社会へ出て勤め始めて早々に退職し、引きこもってしまう若者が十年前の二十倍に達しているといいます。社会に出れば、新しい様々な人、想定外の事態と向き合い、それぞれに注意を払い判断を下していかなくてはなりません。こうした社会の荒波の中で生きていく智慧は、以前なら暮らしの中で自然と経験し、年齢を重ねると共に会得してきた類のものです。
 手紙を書く機会が少なくなったとよく聞きます。メールの方が手軽でよいのでしょう。それに比べ手書きは、まるで彫刻をするような造形感覚や音楽を奏でるようなリズム感、さらに細かい手の動きなどが加わります。手で文字を丁寧に書くことは自己の表出性が高く、前者と比べ重みのあるものです。この重みを軽くしてくれる現代の便利な道具の恩恵にあずかるのもよいのですが、それに頼りきることの弊害が顕在化し始めていることも確かです。
 コミュニケーション能力とは人の心の機微について推し図る想像力と、それにいかに対応するかの表現力にあるはずです。便利さの追求が極まりつつある今、あえて不便さを享受し、少し重いものに取り組もうとする姿勢が求められていると思います。

相手が読み易い字とは(2017年7月号) [2017]

文字が上手かどうかの一つの尺度に「相手が読み易い」という点があります。国語の作文や職場の書類を書いた際に「もっと読み易い字で書いてほしい」などと注文をつけられ、習字を始めたという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 読み易い文字の代表例は「明朝体の活字」でしょう。たて画が太く横画が細く、また文字のまわりを含めて点画どうしが均等にデザインされているため、最も認識しやすい、つまり読み易い書体ということになります。実際、新聞や雑誌、書籍などの出版物のほとんどはこの書体を採用しています。ただし、この明朝体活字の書体は手書きするには不向きです。例えば「辺」という字などのしんにょうの左部分は、手書きではくねくねと曲がります。「令」の字の下の部分も手書きでは「マ」の形になります。読み文字と書き文字とでは、その性質が微妙に異なるのです。
 活字はあらかじめ用意された文字を「並べる」ものです。一方、手書きの文字は指で一点一画を描いていきます。明朝体活字のように手書きするとしたら、それはレタリング(図案文字)となってしまいます。手書きの読み易い文字は、明朝体活字の整斉さに、手書き特有のリズム性や表情の豊さが加味されていなくてはなりません。
 このような「相手が読み易い字」を手書きするとしたら、まずは筆記具の持ち方に注意すべきです。「虚掌実指(きょしょうじっし)」というように、掌(てのひら)にピンポン球が入る位の空間をとり、親指、人差し指、中指の先で三方から筆記具を支持します。この持ち方をすれば、筆記具の上下の抑揚運動を滑らかにコントロールすることが出来ますし、点画の向きの微調整や、細かい点画の連続した書きぶりも可能となります。また親指の先を使うことにも大きな意味があります。親指の動き
について脳が使われる領域は大変広く、親指を使った書字活動の大切さは、脳科学的な視点からも指摘することが出来るからです。
 身体から離れた読み易い文字が氾濫するこのごろです。肉声に耳を澄ませるがごとく、肉筆から感じとる力を衰えさせてはならないと思います。

名前を書こう(2017年6月号) [2017]

 物事のほんの初めの段階を、よく「いろは」といいます。江戸時代、寺子屋での手習い本の入門書は、まず「いろは覚」で、子供達はここから文字を学び始めます。次の教材は何かというと、「名頭字(ながしらじ)」、つまり名前の書き方を学ぶことになります。名前でよく使われる文字、源、平、藤、橘、孫、彦、伝、吉、伊、半…と習っていきます。太郎、次郎、右兵衛、左右衛門などは、まとまりで覚えていきます。これらを読み書きしていけば、人の姓名を理解することが出来るようになるわけです。
 名前を書いた書の古典に空海の「灌頂記(かんぢょうき)」(「灌頂暦名(かんぢょうれきめい)」ともいう)があります。弘法大師空海は、書を能くし、嵯峨天皇や橘逸勢と共に三筆と称せられます。「灌頂記」は、空海が高雄山寺で灌頂という仏教の儀式を受けた人の名を書きつらねたもので、最初には最澄の名も見られます。これは他の人に見せるため、というよりも一種の覚え書きのような記録であり、空海が自由無礙(むげ)に書き上げているものです。空海の研究者の中には有名な空海筆の「風信帖」よりも「灌頂記」の方が好きだ、という方もいます。「風信帖」が改まったよそ行きの書としたら、「灌頂記」は空海の素の表情が感じられるところに魅力があるかもしれません。「灌頂記」には一六六人の名が連なっています。空海は、これらの名前を書く際に、その一人一人のことを想い浮かべながら書いたに違いありません。
 新入学、新年度の時期には、お子さんの持ち物にそれぞれ名前を書くのに一苦労した方も多かったのではないでしょうか。色々な形や大きさのラベルに名前を書くことは大変なことですが、お子さんは、きっとその書かれた名前に温かく見守られながら学校に通っていることでしょう。封筒や葉書きの宛名にしてもパソコンを使えば効率よく出来上がりますが、相手を想いながら、手を丁寧に動かして書かれた文字は、その文字自体が肉声のような表情をもって伝わるものです。文字を書くことは記録や伝達の手段としてのみ捉えられがちです。手で文字をしたためる時間は決して無駄な時間ではなく、これからの時代、意図的に確保すべきものであるはずです。

手書きの世代間感覚ギャップ(その二)(2017年5月号) [2017]

 今の中高年が学校に通っていた頃の定番の筆箱として「缶ペン(カンペン)」というものがありました。名のとおりスチール製で、筆記具がそれこそ六本も入れば一杯になってしまう代物です。文字を書くことが誰でもタッチするだけで可能になった昨今、筆記用具はあまり売れなくなったでしょう、と缶ペン世代の方はよく言います。実際にはさにあらずで、筆記用具の売り上げは右肩上がりです。筆箱のサイズも大きくなりました。子供達はまるで弁当箱かと見紛うような大きな筆箱に筆記用具を沢山入れ、それを使い楽しんでいます。
 先日、アルコールやメディア依存に関する治療、研究を行っている久里浜医療センターの中山秀紀精神科医長のお話を伺いました。中山先生はテレビやインターネットの接触時間と、その依存に関して様々なデータを集め、その問題点を詳らかにしています。それらの中でも興味深かった点は「依存者と周囲の人との考えの根本的な相違とジレンマ」に関してです。大人は「好きなこと(ゲーム・ネット)を存分にしているから、幸せなんでしょうね」と考えるそうですが、子供にしてみれば「好きなこと(ゲーム・ネット)を存分にしている。けれど自分は不幸。なぜ?」と感じているといいます。依存者はゲーム・ネットから抜けられないだけで、楽しんでいるわけではないのです。こうした感覚のギャップは、アルコール依存など、他の依存にも言えることで、問題の解決を難しくさせています。
 手書きや書道というと、中高年以上の世代は「古い」もので、これからはパネルにタッチして読みやすい文字を書くことが「新しい」ものと考えている人が多いようです。つい最近、某放送、新聞のメディア関係の方々と手書きと脳についてお話をする機会があり、やはりそのような感覚を持っていましたが、話が終わる頃には手書きについて認識を新たにしたようで、皆、顔を明るくして今日は勉強になった、と帰っていきました。本当に分かったかは定かではないのですが、熱意を持って語れば通じる話題であり、「新しい」時代に漠然とした不安を覚えている中高年にとっては、希望ともなる視点を提供出来る「手書き」の話なのかも知れません。ちなみにこの対話は気が付いたら四、五時間が経っていました。これからも腰を落ちつけて根気よくこの話題を発信していきたいと思っています

手書きの世代間感覚ギャップ(その一)(2017年4月号) [2017]

 手書きに関して言えば、現在四十代以上の方は、子供の頃、通信手段といえば主に電話や手紙であり、メールでのやりとりなどは、経験されたことがなかったはずです。そういう私も、世人に先んじて四十年近く前、まだ、お父さん達が電車が止まると十円玉を手に公衆電話に行列を作っていた頃、好奇心から電子メールをしていたものです。この頃の電子メールは、モジュラーという機械の上に電話の受話器を乗せて、カセットテープに録音した電子音を送る、といった方法ですが、これが未来を体感しているようで、一人得意になっていた事を覚えています。この頃の世代は、文字は手書きすることから、タッチすることに移行していくと考え、悪筆にもかかわらず手書きを強いられ、そこから解放されることに明るい将来を描いていたのかも知れません。
 翻って現在、学校の保健室に行けば、デジタル機器の過度の使用を控えるようにと呼びかけるポスターをあたり前に見かけるようになりました。最近では、日本小児医会と日本医師会が、約十七万人の会員に向けて「スマホの時間 わたしは何を失うか」と題して、使用時間に比例して学力が下がることをデータで示しています。今の高校生以下の世代は、現在、四十代以降の社会の中心となっている働き盛りの世代がまったく受けていないデジタル機器の負の側面について学んでいるのです。
 私が手書きについて色々な人と話しをする中で、四十代以降の世代では、「手書き」が「古いもの」という感覚が前提になっていて、逆に高校生以下になると「かっこいい」という感覚があることに気付きます。これは、書道や百人一首を題材とした漫画が子供達に人気を博していることでも分かります。情報通信革命のただ中にある我々にとって、この世代間のギャップは、無視の出来ない事象と感じる場面に多く遭遇しています。次回はこのことについてお話していきたいと思います。

書道は「語学」(2017年3月号) [2017]

春の訪れが待ち遠しい冷たい風が身にしむ頃、街を歩くと「淹れたてのコーヒーあります」などといった看板を目にします。ほっと一息一杯いただこうという気をそそります。これが「入れたてのコーヒー」だったらいかがでしょう。コーヒーを味わおうとするのなら「入」より「淹」の文字を使った方が、たとえ中身が同じだとしても期待感に差がつき、よく売れるかもしれません。
「淹」の文字は国の定める常用漢字二一三六文字の中に入っていません。学校では習わない漢字なのです。文字の使い方、また文をいかに構成するかについての専門家には、小説家、コピーライター、新聞や雑誌の記者などがいます。言葉や文でいかに表現し読み解くかは、諸外国の言語も含め「語学」の範疇となります。
 グルメの評論家には、看板の文字が上手だと、その店の料理はだいたいおいしい、などと指摘する方がいます。書が、長短、太細、連離、細かい点画の書きぶり、配字などの様々な要素の匙加減が大切なのと同じく、料理も様々な食材を用い、それを互いに引き立て合い調和させなければなりません。書
と料理は、こうした点で似ている点が多いのです。「淹れたて」の文字が表現豊かに書かれていれば、そこにも強い訴求力があるわけです。
 文字を整えたり、はたまた表現豊かに美しく書いたりすることを追求するのが書道であり、特に現在高等学校では「芸術」の領域の学問として分類されています。文字や文の内容については「語学」で、その形をいかに表現するかは「芸術」ときっぱり分けることは出来ないと私は思います。文字を美
しく書こうとよく考えて手を動かす際には、言語中枢の所在である脳の前頭前野を使います。芸術と語学は、脳の機能を構造から考えれば、一体不可分な学問領域であるはずなのです。
 およそ十年に一度の学校教育における学習指導要領の改訂が、近く行われます。その中で小中学校の国語科において行われてきた、手書きすることの要素が高等学校の科目の中にとり入れられようとしています。書道が語学力の発達に資するような学問領域であってこそ、始めてそれが真に書をなすこ
とに通じてくると私は考えています。

筆の洗い方(2017年2月号) [2017]

 筆巻きの中を見ると、だいたいその人がどの程度の書き手であるか分かるものです。どんな種類の筆を持っているか、というより、その手入れの仕方で道具をどう使いこなしているかが見えてくるからです。
 最近、筆は洗ってはいけないのですか、と訊かれることがあり驚きます。筆は洗わなければ翌日にはカチンコチンに固まってしまい、使い物にならなくなります。これは固形墨を磨ったものでも墨汁でも同じことです。
 想像するに、学校での習字の時間に大勢が一度に筆を洗うと、その分授業の時間が確保出来なくなるとか、流し場が汚れたり、時には詰まってしまうことを恐れて、「学校では洗わない」とされていることが、いつの間にか「筆は洗わない」となってしまったのではと疑っています。学校でも、道具の手入れを学ぶため、筆は洗ってもよいのではと思います。また、濡らした紙で筆を拭くという方法もありますが、これは筆のベタつきをとりながら、毛を整える際に行う一時的な手入れであり、根本的な洗い方ではありません。
 筆には大きく分けて、その根元から順に腰、腹、先という部分があります。紙に接するのは先だけだからといって、腰や腹の部分は使わないということではありません。筆の腰のバネを効かしてそれを腹を通じて先に伝えるのです。筆の腰のバネをリズムに変え運筆をするからこそ、書が目に見える音楽になるのです。筆の持つこのデリケートな機能を発揮させるためには腰から丁寧に洗うことが必要です。
 筆には様々な種類がありますが、一般に最低二分の一以上はおろします。おろしたところまで洗わないと、筆が割れる原因になります。筆の根元の方に毛細管現象で墨がたまった筋が残らないように洗うことが大事です。洗い過ぎも注意です。墨の膠分(最近では合成糊の場合も)をとり過ぎ、またごしごしとしごきすぎると毛麟(鱗のような毛のギザギザ、これが墨の含みや吐き出しに大きく関係している)を痛めてしまいます。おろしたての筆は毛の油分が多く腰が弱いものですが、使い込んでいくうちに、腰に張りが出てきます。筆は使い込み、手入れをしながら育てるものなのです。
 寒さの厳しいこの時節、筆を洗うのは骨が折れます。自らを鍛えてくれる筆に感謝し、大切に扱っていきましょう。
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